千利休が大成した茶の湯。その世界観にふさわしい茶碗を長次郎が表現したのが楽焼である。高麗茶碗や天目がもてはやされていた桃山時代、一切の装飾を排除した素朴な黒は、さぞ周囲を驚かしたことだろう。 ろくろを使わず、手づくねにより成形し、屋内にある坩堝のような小さな窯で、一つ一つ焼かれる楽焼。現在十五代を数え、その独特たる技法は綿々と受け継がれている。
そんな楽家に、唯一独立を許された人物が、初代小川長楽である。楽家十一代慶入に弟子入りし、類稀な才能が認められ、独立の道を進んだ。この初代を祖父とし、三代小川長楽となったのが小川幸雄(本名)さん。
「高校卒業後に、父親の二代小川長楽に師事しましたが、それまでは、陶芸の道に入るなんて全然考えてませんでした。元々建築家になりたくてね、高校も普通科で、物理を勉強していたくらいです」小川さんが、目指すようになったきっかけは祖母の死からだという。初代もすでに他界していた。
「もし何も教えてもらわずに、父親も死んで、小川長楽の築いてきたものが失われてしまえば、後悔するかもしれない。それなら、教えてもらえるうちに教えてもらおう、父親にしか教えてもらえないのだと、決めたんです」それ以来、父親の元で、作陶に打ち込んだ。百個作って、父親に認められるのはたった数点。ひたすら作り続け、身体で覚えるまで、徐々に技術を上げていく日々だった。
「十年もたてば、ある程度技術は上ります。でも、そこからなんですね。改めて出発なんです。そこで満足すれば、ただの技術だけになってしまいます。それだけでは、人の心はひきつけられません」
楽家にしろ、長楽家にしろ、ただ、技術を受け継ぐだけではない。そこに独自のものをいかに表現するかということに、継ぐ価値がある。
「デザインを抜本的に変えるのでは、楽焼を継ぐ意味がなくなります。長い時を経ながら遅々として進んできた楽焼には、道具の開発、釉薬の開発など様々な進歩があります。その中で、歴代の陶工がなし得なかったものがある。私はそれを現代で挑戦し、流れを進めたいんです」
長楽家が発展させたものに「焼貫」という技法がある。焼貫とは、黒楽の窯にて中窯を使わず直接炎と自然の灰がかぶって焼くもので、これまでは「灰器」や「掛花入」などの小さな器しか作り出すことができず、しかも底は漆で補強せねばならない難技とされていた。これを、長楽家は、底を補強することなく、また花器や水指などより大きいもので表現することに成功している。小川さんはそこに、「釉彩」という独特の釉薬を完成させ、赤、緑など彩りを付け加えるなど、釉薬の研究で自分らしさを表現する。
「土も自分で見つけます。ただ、すぐにはつかえず、土を空気や雨にさらして寝かせ、作品になるまでには二、三十年ほどかかります」 数十年。気の遠くなるような話かもしれないが、「楽焼」というスパンで考えれば、決して長くはないのだろう。
「楽焼が残ったのには、理由があります。それだけ大切にされ、愛され、評価されてきたからでしょう。私も、後世に伝わって、何度も人の手に渡って、残り続けるような作品をつくることが、私の目標ですね」
「声」 楽焼が深く関わる茶道は、総合芸術です。茶室、道具、料理、庭など、全てが完璧でなければなりません。ひとつでもバランスが悪ければ、それで壊れてしまう世界です。
よく、「陶器を見る目はどうしたら身に付くんでしょう?」という質問を受けることがよくあります。私はそういう時に、「バランス」と答えます。茶道がそうであるように、人間の見る目も広い視野が必要だからです。私自身、陶器だけ見てもいいものは生まれないと思っています。様々な角度から物を見て、ヒントを得る。それを作品作りに生かすことを大切にしています。