清水焼の郷探訪

「清水焼の郷探訪」は2005年頃から2010年頃までに外部記者が取材された内容をまとめたものです。日時や名称など現状と異なる点もございます。予めご了承ください。

第38回

常に同じ品質の陶料を

日本陶料株式会社 代表取締役社長 山中鍈一

  • 明治44年 東京都麹町区東京商業会議所で創立総会を開く
    発起人 男爵 渋沢栄一以下11名
    創立委員長 工学博士 高松豊吉
    資本金 25万円
    本社工場 京都市下京区馬町通本町東入に置く
  • 大正2年 出石採石山買収
  • 大正3年 本社及び工場を、京都府紀伊郡柳原町字七条裏
    (下京区東七条川端6番地<大正7年改称>)に移転
  • 大正12年 山中義次郎役員となる
  • 昭和15年 工場全焼
  • 昭和44年12月 本社及び工場を、京都・清水焼団地に移転
  • 昭和52年6月 山中鍈一代表取締役に就任

〒607-8322
京都府京都市山科区川田清水焼団地町2-3
TEL.075-591-9501
FAX.075-591-7354

志 ambitions

 江戸時代に備前有田で陶石が発見されて以来、純白の艶やかな質感が人々から愛され、作られてきた磁器。原料の陶石は、熊本県の天草を主要産地とするが、兵庫県の出石でもわずかながら産出される。
 この出石の陶石に、天草の陶石、瀬戸の陶石や陶土などをブレンドした原料を用いて陶器を作り、発展してきたのが清水焼だ。原料を加工するのは、清水焼団地にある日本陶料株式会社。陶石のほか、陶土や釉薬など100年近く清水焼を支えてきた京都で最も古い陶料製造会社である。
 明治44年、日本陶料株式会社は、時の大蔵大臣渋沢栄一が発起人となって創立する。外貨獲得には日本の土で陶器を作り輸出することが得策と考えた渋沢大臣が、陶器の原材料を供給する大規模工場を作ろうと試みたのがきっかけだ。京都に工場を置いたのは、美術工芸が盛んに作られていた土地柄だったため。大正の始め頃には、出石にある柿谷鉱山から、陶石を採掘するようになっていたという。

 現代表取締役の山中鍈一さんの父親で前社長の義次郎さんは、大正7年に名古屋の大学を卒業した後、日本陶料に就職。入社当初から、経理面を任されていた。
 「会社の大蔵相を任されていたわけです。父の周りは、渋沢大臣をはじめ、財界のトップの方といった偉い人ばかりで、みなさんお金を使う方は上手いんですけど、商売の方は下手。東京から出てきては、父に『うまくいっとるか、これから島原でも遊びに行くか』という調子だったそうで、大正中ごろには経営状態が悪化したこともあったようです」

 経理を切り盛りすることで頭角をあらわすようになった義次郎さんは、社長に就任する。 戦争中は、呉にある海軍の工場へ研削砥石用の原料を送るなど軍需物資を提供していたが、終戦を迎えると再び陶料へ製造を戻す。鍈一さんは、その頃に「どこもいくとこないなら手伝ってくれ」と義一郎さんに促され、会社に入ったのだという。「機械を動かそうとしてもみんな故障してますから、修繕することから始めました。なんとか原材料を作ってもクレームばかりで、当時は、30人以上いる従業員の飯を食わせるだけで精いっぱいでした。停電が続くので、夜中でも機械が動かせるようにGHQに頼みに行ったこともあったり、機械が次から次へと故障した時は、海軍でディーゼルを動かしていた機関士を引っ張ってきてディーゼルを動かしてもらったりしました」

 そんな苦労の中、ものづくりがようやく軌道に乗ってくると、山中さん親子は昭和30年代に、工場移転の構想を練り始める。工場周辺を住宅が囲むようになり、工場の騒音が環境にそぐわないと判断したためだ。
 「私たちを含め10人ほどの発起人が集まって、工業団地を作ろうと考えたんです。当時は工場団地という構想が国も京都市にもなかった。工場と住宅街を別にしないとあかんという考えがね。昔は職住一体が当たり前でしたが、産業を興すことは、周囲の生活を脅かすことにあってはならないんです。そこで、ちょうど東海道線が東山トンネルを超えてでてきて煙を出してるから、あの辺がいいだろうということで、山科を選んだんです。煙や騒音を出すものはみんな集まれ、とね」

 それが、現在の清水焼団地である。日本陶料は、団地内で最も広大な土地を所有しており、工業団地構想にいかに力を注いでいたかがうかがえる。
「下水を通そう、プロパンガスを導入しようなど、いろんなアイデア出しては、どうやって実現させていくかに随分頭を悩ませました。でも、みんなパワーがありましたね。新しい土地で新しいことを始めるという希望が大きかった」

技 skills

 山科への移転の際、工場の設計を全て行ったのが鍈一さんだ。
 「大学は窯業科をでたんですが、学徒動員で軍需工場に入って仕事をしていた時、機械や電気関係も勉強できたのが、工場の設計に役立ちましたね。大きな工場でも、たった数人で動かせるような動線設計を考えました」
 2000坪もある工場内を見渡してみる。機械を動かしている人間はわずか3人だ。
 「品物を作っても、常にお客さんが買ってくれるという確約はない。需要が減れば、人を減らさなあかんし、増えれば人を増やさなあかん。お客さんが買ってくれるお金で、雇う人数を決めるんです。それに合わせて伸縮できる工場になっています」
 陶石を細かく砕く粉砕機、精製して不純物を取り除いた後、水分を絞り取るフィルタープレス、空気を除去する真空土練機など、工場内には巨大な機械が整然と並ぶ。完全な流れ作業の体制から、質のいい粘りのある粘土が生まれる。

 「出石と天草、瀬戸といった陶石の配合具合によってもかなり質が違ってくるので、適当な加減を決めるのに何度も実験を繰り返しました。今は、北は北海道から南は九州まで、陶芸作家さんから碍子メーカーまで、需要は全国にあります。会社としては、質を狂わさないのが中心。いつでも同じものを作り続けることが大事ですね」

声 voices

 <メッセージ>
 人間は、行き詰ってしまった時こそ考えが浮かぶもの… 私自身、何度もそういう経験をしながら、乗り越えてきました。
 例えば、出石の柿谷鉱山は100年以上掘り続けてきたせいで、採れなくなりつつある。採掘の職人さんがそろそろ掘る所が無くなると困り果て相談に来たとき、さて、どうしようかと頭をひねります。すると、アイデアをぱっと思いつく。
 「掘って穴をあけた場所へコンクリートを流せば、届かなかった天井と床も採掘できるのではないか」という具合。このアイデアを実践したところ、柿谷鉱山はあと3、40年は安定した採掘量を得られるようになりました。

 行き詰まるから頭を使う。追い込まれると人間は考えるのでしょう。もう80歳を過ぎましたが、まだまだ現役で、頭をひねっていきたいです。最近は、清水焼の発祥地、清水寺のふもと五条坂に「くるる五条坂」を建て、清水焼の販売、宣伝を行っています。これが私の最後の仕事です。

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