林康夫さんが陶芸の道へと歩み出した背景には、一つに戦争体験がある。
昭和3年、陶芸家の父のもとに生まれた林さんは、仕事場と住居が離れていたため、父の制作風景を見たり、早くから土に触れたりなどして陶芸に興味を持つという経験はなく育った。むしろ、小さい頃から好きだったのは絵を描くこと。日本画家をめざし、進路は京都市美術学校絵画科を選んだという。
「美術学校時代に、父親の仕事を手伝ったことはありましたが、灰にはまみれるし、手は汚れるしで、陶芸には泥臭いイメージを持っていましたね。それよりも、絵の方が繊細で美しい。写生などは、面白いほど手が動いて描くのに夢中でしたね」
堂本尚郎、加山又造といった後の巨匠達と学舎を同じくし、常にトップを争っていたという林さん。しかし、太平洋戦争が勃発し、国内が戦争一色に染められていくと、戦意に燃えて海軍航空隊を受験。昭和18年10月、美保海軍航空隊の第十三期海軍甲種飛行予科練習生として入隊し、ここで厳しい訓練を受ける。
「筆しか持ったことのない美術少年が、いきなり体力勝負の世界に入るんですから、大変でしたね。海軍は全部競争で、負けると厳しい罰則が待っている。それが嫌で必死になってやると、いつのまにかクリアしているんです。その経験は“人間やろうと思えば何でもやれるんだ”という自信にもなりました」
昭和20年、林さんは特別攻撃隊に志願。
「400名のうち、80人くらいを特攻隊に任命すると言われました。志願制だったのですが、私も含めほとんどの人が志願していましたね。特攻隊に選ばれた時には、やれやれとほっと胸をなでおろしたくらいでした」
今か今かと攻撃命令を待つこと数か月、結局その命令は発令されることなく、大分県佐伯で終戦を迎えた。
京都へと戻った林さんは、京都市立美術専門学校に編入学し、再び日本画を学ぶ。しかし、厳しい訓練と大空を駆け巡る経験を経た林さんにとって、日本画の画布はあまりにもスケールが狭かった。
「写生しても今までのように入り込めなかったんです。16歳の夏から飛行機に乗って、自由自在に空を飛び回っていたものですから、自分が見る空間が変わってしまったんですね。それで、他の道を探そうと思っていたところに、統制解除になって父親が仕事を再開しだしたので、改めて父の手伝いをすることに決めたんです」
家を手伝い始めた時、林さんが父に言われたことは、「父親のマネはするな。自分の好きなようにせよ」だった。家業をそのまま継ぐのではなく、自分の好きな道を切り開けという意味の言葉は、林さんに自由に制作できる環境を与えた。
戦争と父の言葉と…それらが林さんを芸術家への道に導いたのだった。
「お前の仕事をせよ」という父親の言葉を受けた林さんが飛び込んだのは、前衛芸術の世界だった。
「ピカソやマチスの作品には本当に衝撃を受けましたね。それに加えて、大和政権時代、シルクロードや朝鮮などの影響を全く受けずに、日本独自に生み出した“直弧文”という文様にも大きな影響を受けました。直線と弧線の交り合いが絶妙で、そこに立体の要素を見出し、こういった斬新な文様を、日本が古来から作り出していたということに、“こういう世界があるのか”“自分が進む道はこれだ!”と直感しました」
昭和22年11月17日、林さんは宇野三吾氏、清水卯一氏ら10名の若手陶工達とともに前衛陶芸の研究グループとして「四耕会」結成に参加。旧態依然とした官展系の美術界とは一線を画し、在野という意識から自由な造形を試み、林さんは、今までの器ではなく、オブジェという立体造形に挑戦するようになる。なかでも、生け花の未生流家元、中山文甫氏が発した「私らが生けにくい花器を作ってみろ」という言葉には触発されたという。
「これは面白いなあと。それやったら暴れ放題暴れてやろうと思いましたね、」
いち早くオブジェ作品を発表した林さんだったが、国内では「ガラクタ扱い」を受けてしまう。しかし昭和25年、フランスのチェルヌスキー美術館の「現代日本陶芸展」に応募(※応募作品…写真『無題・Untitled』参照)すると、みごと入選。この陶芸展では、当初入選した作品の形状が複雑なため、梱包不可能という理由で、別の作品が出展されてしまったが、以降、林さんの海外での評価は高まり、昭和47年、イタリアのファエンツア国際陶芸コンペティションで日本人初のグランプリを受賞。昭和48年、49年、62年と海外国際陶芸コンクールでグランプリを受賞するなどの栄誉に輝いた。
林さんが世界的に評価される所以は、精巧な技術はもちろんのこと、研ぎ澄まされた感覚が類まれな世界を作り出しているからだろう。航空兵時代、夜間の編隊飛行作業によって、空と地上の区別がつかず空間失調に陥った経験が、錯視効果を狙った作品に変わるなど、林さんのなかに流れる血や肉が作品に反映されるからこそ、独創性が生まれるのだ。
2009年夏には、ハイデルベルグにてハンガリー人、スペイン人の作家達と、展覧会を予定しているという。「頭だけで作るのではない。体全体で、五感で作ること」と林さんは語る。
その情熱は生涯、失われることはないだろう。
「前衛芸術」という、最初に目に飛び込んできた強烈なものを、自分の中で表現してみたいと思い、私の制作は始まりました。以降、独学で突き進んできましたが、大切なのは、「五感を使って作ること」だと感じています。
日本の場合、陶芸を学ぶ場合はたいてい古典を下敷きにし、模倣から始まります。しかし、模倣では、技術は理解できるようになりますが、時として、そこから抜け出せないことがあります。
それよりも、生き生きとして力強い。気持の芯から自分が作りたいと思えるものを表現したい。私は、これからもそういった思いをオブジェという造形で表していきたいと思います。